レビュー 「地震」(修正 しりゅう

 リアリティーはどこにあるんだろうかということを考えていた。言い換えれば、町や人や空や風はある、そこにたしかにある。だけどそのひとつひとつの感じ方はひとそれぞれで、その感じたものの総体を現実と呼んでいるのではないかとおもう。3月11日の震災が起こってすごく不思議な気持ちがした。不思議というと不謹慎かもしれない、ただぼんやりと何も本当のことが言えないというようなそういう気持ちがした。ニュースで目にする、地震や津波によって破壊される風景はまるで世界の終わりのようだった。瓦解した建物、どろどろと流される家屋、液状化した街路、火災の炎、原発事故。端的にいってそれは信じがたい光景だった。ゲームとか、映画とか、そういう想像力を弄んだ情報にしかおもえなかった。しかしそれはどうしようもなく現実だった。

 地震直後のTwitterやmixiではたいへんな騒ぎだった。放射線にたいするデマだとか、あるいは拡散希望というタグをつけて発言する何かだとか、原発なんてつくらないほうが良かったということだとか。しかしひとつの特徴として、その発言のほとんどは被害から一歩遠ざかっているひとたちによるものだった。だからなのだろうか、あまり説得力のない言葉が多かったようにおもえる。本当のことは何も言ってない気がした。それは嘘の言葉が川になって流れていくような風景だった。

 震災は僕らに何をしたんだろうかと考えるときに、まず突き当たるのは実際的な被害の差異だ。近親を失った人に対して、何も被害を蒙っていないアデレードにいる僕たちが分かち合える感情はあまりにも少ない。にもかかわらず、僕たちは何かを失ったような気がしている。ここまで極端ではなくとも、多くの日本人に同じ現象が起こったからこそ、ネット上でのあの騒ぎが起こったのだと思う。だからといって僕たちに起こった感情は不正で不謹慎なのかというとそうではないとおもう。

 おそらく遠くの町の破壊や言葉の川を目の当たりにして、僕たちのなんとなく認識していた現実というものの脆弱性を突きつけられたのだと思う。現実は思っていたよりも残酷だった。地震は僕たちの想像力をも揺り動かした。津波はあの家屋の瓦礫といっしょに僕たちの言葉と現実感の欠片を押し流していった。そういうことが3月11日以降に起こったのだと思う。あるいは現実の建物は直るし、生活だって戻ってくる、でも心を住処にするものの傷はすぐには癒えない。だけど世界はまだ終わっていないのだし、なんといっても僕たちは生きなきゃならない。それがあるいはいちばん純粋な現実なのかもしれない。